エルヴァの屋敷はカイトの想像をはるかに超えて広かった。
カイトにあてがわれた部屋も二十畳ほどの寝室としては広いもので、白を基調とした明るい部屋には先ほど紳士服店で買った部屋着や下着などの荷物がすでに運び込まれていた。 夕食までの自由な時間を得たカイトは、窓際に小振りなティーテーブルを挟むように置かれた椅子に腰掛けると「他にすることもないし」と気楽な動機で禁書を開いた。 カイトにとって禁書に目を通す行為は、召喚魔法の知識を得るためというよりも娯楽小説をめくる感覚に近かった。 窓から射し込む光が柔らかい暖色に変化したことで、日が落ちるんだと気付いたカイトは部屋に備え付けられたランプを灯した。 蛍光灯やLEDといった電気照明以外に触れることがほとんど無かったカイトにとっては、新鮮でありながらも仄暗い夜が始まった。 携帯式のランタンで足下を照らしながらカイトの部屋を訪れたメイドが夕食を報せるまで、カイトは目が慣れてしまえば文字を追うことにストレスのないランプの灯りを頼りに禁書を読み進めた。 メイドの案内に従いカイトが食堂に入ると、十人が席についても余裕がありそうなテーブルの両端には四台の大きな燭台が置かれ、合わせると二十本のろうそくが灯っていた。 随分とムードのある食卓だとカイトは思いながら席に着いた。 カイトに少し遅れて食堂に入ったエルヴァは、目抜き通りでのショッピングを終えて屋敷へ戻った際に出迎えた三人のメイドとは別のメイドを連れていた。 エルヴァは席に着くと、カイトにとっては初対面となるメイドの紹介を始めた。「まずカイト君に紹介しておこう。きみに付いて身の回りの世話を担当するメイドのストーリア。今日からこの屋敷へ入ることになった新人君だ。きみと同い年の二十歳らしいから気兼ねもいらないんじゃないかな」
エルヴァに紹介されたストーリアは、カイトに向かって深々と頭を下げてから自分の名前を口にした。
「ストーリア・カストリオタと申します。これより身の回りのことは何なりとお申し付けください」
小柄なストーリアは白い肌を引き立てる赤褐色の髪をショートボブにしていた。
ベルエポックとも呼ばれる華やかな時代背景を反映するように、この異世界に来てからカイトが目にした女性はヘアメイクが際立つ長い髪の女性がほとんどだった。 顎のラインに沿うようなショートボブのストーリアを見て、外見から受ける時代の違いをあまり感じないと思ったカイトは、初対面のストーリアに対して微かな親近感を抱いた。 切れ長の目が理知的な印象を与えるストーリアに微笑みを向けられて、ドキッとする自分に気付いたカイトは異世界に来てからの相手が女王でも世界最強の存在であっても落ち着いて対応できてしまっている「らしくない自分」の反応ではないことを嬉しいと感じた。 夕餉はランチよりも豪勢なフルコースだった。 旺盛な食欲をみせて次々に平らげるカイトの様子を肴とするように、エルヴァはチーズだけを軽くつまみながらワインのフルボトルを二本ほど空けた。 食事を終えて自室としてあてがわれた部屋へ戻るカイトを、ストーリアが携帯式のランタンを持って先導した。 カイトの自室の前に着くとストーリアが立ち止まったので、カイトも立ち止まってストーリアに声をかけた。「俺はもう寝ますので、今日はもう結構ですよ」
「そうはまいりません。まず、お着替えがございます」ストーリアの口から「お着替え」と聞いて驚いたカイトは、慌てて断る理由を探した。
「あー……えーと、着替えは一人でやるわけにはいきませんか、俺は身の回りを女性に世話してもらった経験が無いので、その……着替えの度に緊張してしまって疲れてしまうかと……慣れそうにもありませんし……」
「……閣下がそう仰るのでしたら……かしこまりました。お着替えの介添えは控えさせていただきます」ストーリアの返答にホッとしたカイトは素直にお礼を口にした。
「ありがとうございます。助かります」
「閣下、わたくしに対しての敬語は不要でございます」 「ああ……うん。分かった。それじゃあ、俺にも敬語は不要ってことでっ……て、そうはいかないのかな」 「はい。まいりません。お心だけ、ありがたく頂戴いたします」メイドとしての立場を考えればストーリアの対応が合っているとカイトは思った。
「うん……そうだよね。じゃあ、おやすみ」
「閣下」部屋に入ろうとしたカイトを呼び止めるように声をかけたストーリアは、
「夜伽のご用命はございませんか?」
と業務を確認する口調で尋ねた。
「よとぎ?」
カイトは言葉の意味を一瞬では理解できなかった。
脳内辞書の検索が済んで答えたカイトは、「ああ、夜伽ね……って、えっ!?」
と言葉の途中で声を裏返させた。
「はい。わたくしでよろしければ」 夜伽を務める意思を示す小柄なストーリアに上目遣いで見つめられたカイトは、対応を間違えちゃいけない場面だと判断できたことで落ち着きを取り戻した。 間近で見るストーリアのきめの細かい白い肌にうっすらと浮かぶそばかすの愛らしさに気付いたカイトは、男の庇護欲をかき立てるタイプの女性だと思った。 「魅力的な申し出だけど、今は必要ないかな」「わたくしでは閣下のお眼鏡にかないませんでしたか……」 ストーリアが目を伏せるのを見て、言葉が足りなかったと思ったカイトはすぐさま補足するように答えた。「いやっ、そういう意味じゃない。きみはとってもかわいいし、本当に魅力的な女性だと思う。ただ、今の俺には夜伽とか考えられないし、受け止める余裕もないってだけなんだ」 カイトの言葉から配慮を感じ取ったストーリアは微笑みを浮かべることで応じた。「お心遣いに感謝いたします」 同い年のストーリアがみせる落ち着いた対応に接して浮かんだ疑問を、カイトは率直に訊いてみようと思った。「あの、一つ訊いてもいいかな?」「はい。なんなりと」 ストーリアがすぐさまコクリとうなずくのを見て、カイトは少し踏み込んだ質問を切り出すことにした。「きみは良家の出身じゃない? 立ち振る舞いがしなやかというか、気品があるというか、短期間の訓練で身に着けたものじゃない感じがするんだけど……」 カイトの質問に対して、ストーリアは一呼吸置いてから答えた。「……わたくしは、御三家と呼ばれミズガルズ王国で最大の勢力を誇るとも云われるファリーナ家の、分家の一つにあたるカストリオタ家の出自でございます」 ストーリアの返答が想定内だったことで、カイトはもう一段踏み込んだ質問を口にした。「有力な貴族に繋がる良家の血筋で、若くて美しいきみがメイドとして俺の担当になってすぐに夜伽を申し出たのは……そういった背後の意向を背負ってるせいってことなのかな」「閣下は聡明であられます……左様です。今のわたくしはファリーナ家の命を受けて、ここにおります」「そうか……分かったよ、答えてくれてありがとう。俺から王配の祖父に相談するなりすれば、その命令を解除できるかもしれないけど……」 カイトが考えを巡らせながら答えると、それまで一貫して落ち着いていたストーリアが微かに慌てた様子をみせた。「閣
テルスと呼称される異世界にカイトが召喚された聖暦一八八九年九月十一日から、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオはその対応に追われた。 セルシオは女王の諮問機関である枢密院の議長を務めるマジェスタと連絡を密にしながら、カイトへのサイオン公爵位の叙爵を略式として断行することで異例の早さで済ませた。 マルチタスクで政治的な処理を片付けてしまう豪腕をもって宰相まで上り詰めたセルシオは、カイトの魔道士への叙任及びミズガルズ王国の筆頭魔道士団であるトワゾンドール魔道士団への入団の手続きも自らが主導して断行した。 トワゾンドール魔道士団への入団に際しては、顧問として迎えている太聖エルヴァの意見を尊重し、ダイキの不在により空位となっていた首席魔道士へのカイトの就任を決定した。 カイトの魔道士としての叙任式典を、朔日である十月一日に執り行うことも併せて決定した。 辣腕をふるうセルシオが激務をこなしてみせるのとは対照的にエルヴァの屋敷に滞在するカイトは、日に数時間程度のエルヴァから受けるレクチャー以外の時間は既に一通り読み終えている禁書を読み返すなどして、勉強に専念するという大学生だったカイトには違和感のない形で異世界での生活をスタートさせた。 禁書に記された十五種の天使に関する情報をすっかり頭に叩き込んだカイトは、通常のランク付けとは別枠として扱われるミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの四大セラフと、サタン、バアル・ゼブル、ベリアル、ペイモンの四大ノフェル。そしてランクには属すが上位の存在として扱われるセラフとケルブの次に位置するスローンまでの五種を、九月十五日までに召喚させてみせた。 十五日の昼過ぎに訪れたサイオン領の飛び地でありカイトが召喚された日にも召喚魔法のレクチャーに用いた草地で、カイトがスローンの召喚を成功させるのを目にしたエルヴァは歓声を上げた。「いやいやいや……! 僕の弟子は本当にやってくれるね! ほんの数日でジズやバハムートなんかの四大幻獣に匹敵するスローンを召喚しちゃったよ」 カイトの意欲にほだされて普段は必ず休むと決めている日曜日にも関わらず、レクチャーに付き合ったエルヴァは心の底から愉快だと表すように両手を叩き合わせて感嘆した。 優に五メートルを超える体長を誇るスローンの白銀に輝く威容を目の当たりにしたカイトも、自分が異世界で確実
カイトは軍服が届いた翌日の火曜日、九月十七日から魔法や魔道士としての基本的な作法などをエルヴァから教わることに並行して、王宮病院で実際に治癒魔法を行使して患者の治療にあたっているケンゾーとともに、実際に治癒魔法による治療を経験しながら治癒魔法を習得することにした。 カイトから治癒魔法も早めに習得しておきたいという意向を聞いたエルヴァは「それはいいね」と二つ返事で了承した。 ケンゾーもカイトの申し出を喜んで快諾した。 叙任式典の前であることを考慮して、カイトは軍服ではなくフロックコートを着て王宮病院へ通うことにした。 王宮病院の医師や看護師といった関係者とその患者には、カイトに関する箝口令が敷かれた。 実際に治癒魔法を行使する治療に先立って、ケンゾーは王宮病院内にある書斎でカイトに治癒魔法についての説明を始めた。「治癒魔法は軽傷を治療するクラティオ、重傷を治療するクラティダ、致命傷すら治療できるクラティガの三つに分類してるけど、それは治療に必要となった魔力量の差でしかない。裂傷や骨折といった負傷箇所をトレースして完治するまでのイメージを浮かべ、魔力によって完治のイメージを患部へ伝えるという一連の流れは同じなんだよ」 意外に単純な分類だと感じたカイトは、それを隠さず口にした。「それぞれ別の魔法ってわけじゃないんですね……その魔力ってどれぐらい使うものなんですか?」「四属性魔法や無属性魔法で用いられる魔力の数値化に合わせるなら、一から三の魔力消費で済む時はクラティオ、四から七で済むのがクラティダ、八以上の消費を要する場合をクラティガと呼んでる。それぞれの呼び方を発声する詠唱は、意識を集中するための呼称でしかないんだ。致命傷では使う魔力が十二ぐらいに達する場合もあるね」「使った魔力は他の属性魔法と同じように、自然に回復するんですか?」「うん。仮に魔力を使い切ったとしても、約一日でほぼ戻るよ。魔力が自然回復する早さも魔道士によって差があるけどね」「魔力を回復するアイテムなんかは、この世界にはないんですよね?」 カイトの質問を聞いたケンゾーが驚きを示すように目を丸くしてみせる。「それは面白い発想だね。残念だけど、そんな便利なアイテムがあるって話は聞いたことがない。あれば便利なんだけどなあ……」「そうなると……戦場で治癒魔法を使う場合は、慎重に使
ケンゾーが治癒魔法による治療の拠点としている王宮内の病院に、カイトが通うようになってから一週間が経過した九月二十四日の昼過ぎ。 工事現場での事故によって重傷を負った患者の治療を、カイトが一人で滞りなく済ませる姿を見届けたケンゾーは、ふうと一息つく様子を見せるカイトに声をかけた。「少し、休憩しようか」 ケンゾーとカイトは連れ立ってケンゾーの書斎に入った。 カイトが王宮病院に訪れた際にはくっついて回るマヤの姿もあった。 治癒魔法の習得に励み、次々と患者を治療するカイトにマヤはすっかり懐いていた。 カイトが治療している間は邪魔にならないよう距離を置いて見ているマヤは、治療に区切りを付けてカイトが休憩する素振りを見せると駆け寄って、ぴったりとそばを離れようとはしなかった。「ダイキも早かったけど、カイトはそれ以上に慣れるのが早いね」「ありがとうございます。でも、おじいさんの教え方が分かりやすいおかげだと思います。体系がシンプルに立っていて理解しやすいですから」「まあ、他の属性とは違って治癒魔法は用途がそもそもシンプルだからね。俺はナーガから下賜されたものをなぞっているだけと言ったほうが近いよ」「下賜ってことは直接、治癒魔法の内容をドラゴンから聞いたってことですか?」「うーん、直接的、とでも言おうか……夢を介していたからね」「夢、ですか?」 カイトがオウム返しに「夢」を強調して訊くと、ケンゾーはゆったりとうなずいてみせた。「そうなんだ。俺がテルスに来てすぐ、三日が過ぎた夜の夢にナーガが現れた。白昼夢に似たその夢の中で、俺はナーガから治癒魔法についての一通りを教えられたんだ」「直に、現実で会ったことは無いんですか?」「ないよ。他の大陸にいるドラゴンに関しては定かじゃないけど、ミズガルズ王国でナーガに直接会ってるのはセルリアンだけだね。カイトは会ってみたいのかい? ナーガに直接」 ケンゾーの問い掛けに対して、思案する表情を浮かべたカイトは一呼吸置いてから答えた。「会って聞いてみたいことはあります。でも、今はまず目の前のこと、治癒魔法と無属性魔法の習得を優先します」「賢明な判断だな。本当に俺の孫としては出来過ぎだ」 ケンゾーが満足そうに微笑むと、静かに二人の会話に入るタイミングを探っていたマヤが、白い陶器のコップに注いだ水をカイトに差し出し
聖暦一八八九年十月一日。 カイトが正式に魔道士として叙任するための「宣誓の儀式」が執り行われるレザレクション大聖堂の周囲には、晴天に恵まれたこともあり朝早くから多くの人々が詰めかけていた。 続々ときらびやかに装飾された二頭立ての四輪馬車が、レザレクション大聖堂の正面に広がる大きな広場の奥に位置する車寄せへと乗り入れた。 ミズガルズ王国の筆頭魔道士団であるトワゾンドール魔道士団に属する魔道士たちが、豪奢な馬車から降り立つ度に群衆から歓声が上がった。「レビン卿とステラ卿のお二人だ!」「いやあ、拝見する度に美しさが増しておられるねえ……」 レビンとステラが馬車から降りると、男性たちの視線は瑞々しい魅力を放つ二人の女性魔道士へと吸い寄せられた。 百七十二センチと女性としては長身であるレビンの、意志の強さを表わすように輝く黒い瞳が群衆に向けられると男たちがざわめき立った。 濡れ羽色のストレートで長い髪が、すらりと伸びた手足を包む純白の軍服と相まって端整な美しさを放つレビンの姿は、十八歳にして魔道士の威厳すら併せ持っていた。 レビンの横に立つステラも百六十五センチと女性としては高めの身長で、亜麻色の髪をショートボブにしている。 理知的な印象を与える銀縁の眼鏡の奥の瞳は琥珀色で、落ち着いた微笑を浮かべてみせる二十歳だった。 軍服を着ていても男たちの目を引く大きく張り出した胸のふくらみと見事なヒップラインが、肉感的な魅力でもって男を魅了していることもステラは自覚していた。 レビンとステラは余裕の笑みを浮かべながら、群衆の歓声に応じて軽く挙げた手を振りながら大聖堂へと入っていった。「あっ! アルテッツァ卿とセリカ卿のお出ましよ!」「ああ、もう……なんて見目麗しいの……」 アルテッツァとセリカが馬車から降りると、打って変わって女性たちの注目が眉目秀麗を絵に描いたような二人の男性魔道士に集まった。 艶めく金髪に翠玉の如き碧眼、鼻梁がすらっと通った欠点の見当たらない美丈夫である二十四歳のアルテッツァと、光沢を含んだ微かに淡い金髪に力強い眼光を放つ碧眼を有する二十二歳のセリカが並んで歩く姿は、女性たちの熱い視線を強く惹き付けた。 百八十七センチのアルテッツァと百九十センチのセリカが身に纏うと、トワゾンドール魔道士団の威光を示す純白の軍服は秋の澄んだ空気の
カイトが群衆の歓声を背に受けながら普段は閉ざされている正面中央扉口からレザレクション大聖堂の中へ入ると、身廊の入り口付近で待っていたノンノがカイトに向かって軽く右手を挙げてみせた。 屈託のない明るい笑みを浮かべるノンノの隣には、穏やかに微笑むピリカの姿もあった。 カイトがノンノの合図に応じて近付くと、ノンノはトーンが高く軽い印象を持った声で名乗った。「あたしは、ノンノ。あなたがカイト卿なんだね」 ノンノはニカッと歯を見せる笑みを浮かべながら、カイトへ右手を差し出した。「はじめまして。ノンノ卿。カイトです」 握手に応じたカイトは小柄なノンノの右手が想像よりもさらに一回りは小さいことに驚いたが、それを顔には出さないように努めた。「あたしのことは、ノンノって呼び捨てでいいよ。敬語もいらない」 ノンノが持つ愛らしい雰囲気と裏を感じさせない口振りに触れ、すぐに好感を抱いたカイトは素直に応じた。「……分かった。ノンノ、これからよろしくね」「うん!」 ノンノは明るい笑みを浮かべたまま、コクリと大きくうなずいた。「ピリカと申します」 ノンノの隣に立つピリカが、カイトに向けて深々と頭を下げる。 フランクで距離の近いノンノとは対照的に、耳にやさしく届くハスキーボイスで名乗ったピリカは落ち着いた物腰だった。 ぷっと吹き出したノンノが、告げ口する口調でカイトにピリカを紹介した。「ピリカはマジメなふりが上手いけど、エッチなことにはすっごい積極的だから気をつけてね」「ノンノ! 初対面の、それも首席魔道士になるカイト卿の前で、なに言ってるの!」 ピリカが慌ててノンノをたしなめるが、ノンノは全く悪びれる様子もなかった。「そんなのどうせ、すぐにばれるんだから、早いほうがいいじゃん」 ノンノとピリカのやり取りを微笑ましいと感じたカイトは「もう少し見ていたい」とも思ったが、これから叙任の儀式と宣誓が始まるというタイミングの今は、ピリカに助け船を出して会話を抑えておこうと判断した。「えっと……はじめまして、ピリカ卿。カイトです。よろしくお願いします」 カイトが右手を差し出すと、ピリカは微笑みを返して握手に応じた。 ノンノよりもわずかに背が高いほどで小柄なピリカの手は、小さくはあったがカイトにとっては「しなやかな手」という印象の方が強かった。 先に身廊
レザレクション大聖堂で執り行われたカイトの叙任式典が滞りなく済んだ後、カイトを初めとする式典の参列者たちは祝宴の会場となるブレビス離宮へと移動した。 ブレビス離宮はミズガルズ王国の王太子が代々東宮としていた宮殿を、現在の女王セルリアンの先代に当たるプラド国王が男子を残すことなく崩御したことで迎賓館として利用されるようになった宮殿で、レザレクション大聖堂から馬車で十数分の位置にあった。 ブレビス離宮の周囲には魔道士ではない一般の兵士が警備のために配置され、王太子の宮城として設計された離宮の周辺には人々が集まれるような広場などは無いこともあって一帯は静かな空気に包まれていた。 祝宴の参列者は主賓であるカイト。トワゾンドール魔道士団のメンバーで式典に参列した六名と、顧問であるエルヴァ。女王セルリアンとその王配ケンゾー。王太子タンドラとその妃であるディアナ。宰相セルシオと枢密院議長マジェスタを始めとするミズガルズ王国の首脳陣。御三家と呼ばれるジウジアーロ家、ファリーナ家、ガンディーニ家を始めとする一部の有力貴族……という少数に限られていた。 祝宴は正式な午餐会ではなく、立食形式がとられた。 数百人を収容できる規模の会場となった「羽衣の間」には奥に大きなステージが設置され、数十の円卓が並んでいた。円卓には彩り鮮やかな料理が並べられ、それぞれの円卓を担当する数十人のウエイターが配置についていた。 セルリアンとケンゾー、そして主賓のカイトがステージへと上がり、カイトの魔道士叙任と筆頭魔道士団の首席魔道士への就任を祝う祝宴は始まった。 乾杯に先立ち、セルリアンが短くスピーチした。「カイト卿の加入によって、戦地において我が国を代表する筆頭魔道士団、トワゾンドール魔道士団の首席魔道士が不在という事態が解消されました。これはミズガルズ王国にとって、この上なく喜ばしいことです。昨今のテルスは予断を許さない情勢が続いています。カイト卿はミズガルズの地にもたらされた光明。その希望を祝うことができる今宵の席を、わたくしは忘れることが無いでしょう。本日は形式ばった午餐会ではありません。参列の皆には本日、この宴を存分に楽しんでもらいたく思います」 参列者全員がシャンパンの注がれたグラスを持ち、乾杯の挨拶はセルシオが行った。「女王陛下、ご列席の皆様。本日ここにカイト卿の叙任と首
アルテッツァとセリカの二人と初めての会話を交わすカイトとの間に流れる空気が、打ち解けたものとなったタイミングを見計らうようにトワゾンドール魔道士団の第十席次を示すマントを纏うノンノと、同じく第十一席次を示すマントを纏うピリカが三人へと近寄った。「カイト卿への挨拶は済んだ?」 ノンノはフランクに親しさを含んだ調子でアルテッツァへ問い掛けた。「ああ、つつがなく済んだよ」 アルテッツァが輝く笑顔を向けて答えると、向けられた笑顔に反応してノンノは返した。「相も変わらず、女を惹き付ける笑顔なんだから。もったいないよね、まったくもう」 小柄なノンノが長身のアルテッツァを見上げるようにして言うと、アルテッツァは対応に慣れた様子で微苦笑を浮かべてみせた。「もったいない?」 カイトが小首を傾げながらノンノの言葉に疑問を向けると、ノンノは平然とその理由を言ってのけた。「これだけの美形で性格も良くて、おまけに家柄も能力に見合った地位も揃ってるってのに、女には興味がないんだよ。アルテッツァもセリカもね」 ノンノがサラッと口にした意外な理由に対して思わず「え?」と声を漏らしたカイトに、アルテッツァは微笑を浮かべながら説明を加えた。「私のパートナーは、公私ともにセリカなんです」「そうなんですか。信頼できるパートナーといつも一緒にいられるって素敵ですね」 カイトは穏やかな笑みを浮かべるアルテッツァにつられるように、微笑みを返しながら感想を口にした。「ありがとうございます。私の時間はセリカがいてくれるおかげで充足しています」 アルテッツァが輝く笑顔をみせながら答える。 ノンノが展開を次へ進める合図代わりにピョンと跳ねて、カイトの前に着地する。「カイト卿は、女性はお好き?」「うん……好きだよ」「お、素直でいいね。ピリカ、チャンスだよ!」 ニカッと笑ったノンノが振り返ってピリカに視線を送る。 ピリカが「ノンノ!」とたしなめる声を上げるのに合わせて、カイトが「でもね」とノンノに声をかけた。 声に反応したノンノが振り返ると、カイトは微苦笑を浮かべながら自分の性格を打ち明けた。「俺は女性に対して積極的なタイプじゃないんだ」「そうなの? もったいないなあ。選り取り見取りの立場なのに」 会話の中心にいるノンノの耳に「ノンノ卿……!」というレビンの落ち着いてい
ヒンドゥスターン王国内では精鋭とされる魔錬士として、十二名から成る筆頭魔道士団の席次に就いていたフリードとビートを、圧倒的な力量差であっさりと処理したアリアは顔色ひとつ変えることなく、ベルゼブブを召喚したままでツカツカと街の中心部に向かって歩き続けた。 アリアの軽快な足取りに合わせて、リラックスした表情を浮かべるヴァイオレットとシルビア、鋭い視線で周囲を警戒する第十四席のギャランが後に続いた。 ベンガラに暮らす住民たちは既に建物の中に引き籠もっており、無人となった街には警鐘だけが鳴り響いていた。 アリアは街の中心に位置する、大きな噴水のある広場で足を止めた。「さて、と。ここで待とっか。人の姿は見えないけど警鐘は鳴ってることだし、あっちから来てくれるでしょ。暑くてもう、歩く気しないしさ」 アリアが軽い口調のまま待機を指示した数分後。 噴水のある広場からほど近いベンガラの役場に詰めていた、メーソンリー魔道士団の軍服を着た壮年の魔道士が二人と、アパラージタ魔道士団の軍服を着た若い女性魔道士が広場に駆けつけた。 緊迫した様子で近付いてくる三人の姿を見たアリアは待ちくたびれた口調で「やっと来た」と呟きながら、呑気なあくびを漏らしてみせた。 背恰好の似た壮年である二人の魔道士は、アリアが召喚しているベルゼブブを目視すると顔を見合わせ、うなずき合うと同時に揃って召喚獣の名を喚んだ。「「タロース!」」 二人の重なった詠唱に応じて出現した、二つの直径二メートルほどで緑色に発光する魔法陣から、全身が青銅色の装甲で覆われた身長三メートルほどの人型をした二体のタロースが姿を現わす。 二体のタロースを見たアリアは、退屈であることを隠さず口にした。「ベルゼブブに対して耐刃性能に優れるタロースを選んだ、ってことなんだろうけど……まあ、土の属性魔法を使う魔道士として間違ってないだけで、平凡すぎるよね」 壮年の魔道士の一人が、泰然とした様子のアリアに奇妙な違和感を覚えながらも声を張り上げた。「ラブリュス魔道士団が、ベンガラの地に何用だ!」 切迫が声に現れている壮年の魔道士とは対照的に、アリアがくつろいだ口調のまま答える。「えーと、アルナージ卿かな? それともカマルグ卿? まあ、どっちでもいいんだけど。セナート帝国はね、今朝、ヒンドゥスターン王国に宣戦布告したんだよ
「宣戦布告も済ませた戦争で、この戦い方が国際法ギリギリなのは承知してるけど。面白くなさそうだったし、まあ、お互い最低限の口上は済ませてたし、ってことで。遅いんだもん。召喚前に「ちくしょう」とか言ってるようじゃ問題外だね」 アリアは吐き捨てるように呟くと、ベルゼブブを召喚したまま軽い足取りで歩き出した。 ラブリュス魔道士団に籍を置く三名が無言でアリアの後に続く。 けたたましい警鐘が鳴り響く中、アリアがベンガラの中心区画に足を踏み入れたタイミングで「クッレレ・ウェンティー!」と風の属性で基本となる魔法を詠唱する少年の声が、アリアたちの耳に届いた。 自身の速度を強化するクッレレ・ウェンティーによって高速で駆ける少年が、アリアに向かって一直線に接近する。 アパラージタ魔道士団の軍服を身に纏う少年の、左肩でたなびくマントに標されたナンバーはⅫだった。「シーカ・ウェンティー!」 少年は駆ける足を止めること無く詠唱を済ませ、風の力で成形された短剣を右手に現出させる。「ラーミナ・ウェンティー!」 少年は立て続けに風の属性魔法を詠唱するのに合わせて、アリアを指すように左手を突き出した。 風の力を刃状に成形して射出するラーミナ・ウェンティーを行使した少年の、左手から撃ち出された風の刃が回転しながら高速でアリアに迫る。 アリアは何ら反応することなく、歩く足を止めることさえしなかった。 平然と歩き続けるアリアに代わって動いたのはベルゼブブだった。 互いに近付いているアリアと少年との間に瞬間的に割って入ったベルゼブブは、脚の先に発生させた風の刃で少年が放った風の刃を難無く叩き落とした。「チッ……!」 舌打ちした少年は、右手に握っているシーカ・ウェンティーによって現出させた風の短剣を投擲した。 ベルゼブブが短剣を叩き落とす隙に、少年がアリアとベルゼブブから距離を取る。「うん。まあ、なかなかと言っていい動きかな? キミ、名前は?」 アリアが戦闘の緊張を欠片も含まない口調で、少年の魔道士に声をかけた。 少年はベルゼブブから目を離さずに答えた。「ビート……アパラージタ魔道士団、第十二席次のビート・ハセックだ!」「ふーん。ボクはアリアだよ。で、ビート卿。称号はお持ち?」「……魔錬士、だ」 ビートがベルゼブブを警戒しながらも素直に答える。「そっかあ……そ
海洋帝国ブリタンニアを始めとする西方の列強四国において国威の象徴であり国防の要でもある四名の首席魔道士たちと席を並べ、東方の島国であるミズガルズ王国の立ち位置を列強各国と肩を並べる位置まで引き上げようと、カイトが慣れない政治的な立ち回りを演じる舞台となったウァティカヌス聖皇国で、五国間の軍事同盟に関する同意を首席魔道士同士で確認した会談から六日後となる三月二十四日。 週が明けた月曜日の朝に、セナート帝国はヒンドゥスターン王国に対して宣戦布告した。 早朝に布告された宣戦と同時に、セナート帝国の筆頭魔道士団であるラブリュス魔道士団の魔道士六名が動いた。 セナート帝国で南方を担当する第六魔道士団の魔道士十二名と、支援部隊として帯同する五十名の一般兵で編成された小隊を従えた、六名の魔道士を乗せた黒光りする装甲板に覆われた汽船は、ヒンドゥスターン王国の重要拠点となっているベンガラの南東に位置する港湾都市チッタゴンを強行突破した。 チッタゴンにはヒンドゥスターン王国及び、ヒンドゥスターンを間接統治するブリタンニア連合王国の筆頭魔道士団に属する魔道士は配備されておらず、魔道士を相手に抵抗する術を持たないチッタゴンの防衛に当たっていた一般の兵士たちは、六名の内の一人である第十八席次のシルエイティの召喚したヒュドラが先導する汽船に対して交戦の意思すら見せなかった。 セナート帝国の汽船は難無く河川を北上し、昼前にはヒンドゥスターン王国とセナート帝国が双方ともに重要視する都市であるベンガラの河川港へと入港した。 河川港に降り立った魔道士たちのマントに標されたナンバーは、Ⅵ、Ⅷ、Ⅸ、ⅩⅣ、XVIII、XIX。 桟橋へと降り立つなり、第九席次に就き南方元帥と称されるアリアがぼやいた。「もうさ、すでに帰りたくなってるんだけどボク。暑すぎるよ。せめてさあ……このジメジメだけでも、どうにかならないかな。湿度高すぎでしょ、まだ三月だよ?」 開けっぴろげにぼやくアリアに対し、第八席次でありながらアリアの副官を兼ね、常に行動を共にしているヴァイオレットが宥めるように声をかけた。「本当に暑いね。夏仕様でも真っ黒なままの軍服で来るような土地じゃない。さっさとベンガラを落として涼むしかないよ」 ヴァイオレットへ無邪気にもみえる笑みを向けて「うん。そうしよ」とうなずいたアリアは、続けて
クーリアが前祝いと言い表した酒宴は、港町でもあるウァティカヌス聖皇国の玄関口として機能するスペツィア港から程近い、庶民的な酒場を貸し切って行われた。 ブリタンニア連合王国を始めとする西方の列強四国と、東方で独立を維持し続けた魔法国家ミズガルズ王国が軍事同盟を結ぶという事態は、既に類を見ない大陸覇権国家として海洋帝国ブリタンニアに比肩する国力を擁していながら、ロムニア王国を併合し更なる勢力拡大の動きをみせたセナート帝国に対抗する大勢力が形成されることを意味する。 世界の対立軸と成り得る軍事同盟について、各国の国防を担う首席魔道士が同意に至った会談の直後という重大な局面とは無縁の、軽い談笑を交わすシロンとクーリアの明るい笑い声が酒宴の空気を担っていた。 ともに酒豪であるシロンとクーリアが、ざっくばらんに語らいながら豪快に杯を重ね続けるのとは対照的に、インテンサとドゥカティは静かに杯を酌み交わしていた。 カイトはヴァルキュリャと差し向かってワインを傾けた。「ブリタンニアにとって今一番の気掛りは、やっぱりヒンドゥスターン王国、ということになるんですか?」 カイトの素直な問いに対し、ヴァルキュリャは微笑を浮かべたまま答えた。「そうですね。ヒンドゥスターンはセナート帝国が掌握したアフラシア大陸に残った最後のくさびと言ってもいい国ですから。セナート帝国との国境がヒマアーラヤ山脈によって護られたっていう要因が大きかったんですけど」「それでもセナート帝国が攻めるとしたら、どのルートになりますか?」「地続きに攻め込まれるとすれば北東のベンガラ、海から攻めるなら王都デリイへの最短ルートとなるドーラヴィーラが考えられます。なので、ベンガラにはメーソンリーの魔道士二名と、ヒンドゥスターンの筆頭魔道士団であるアパラージタ魔道士団の魔道士が数名、常駐してます」「東南エイジアは、ほぼブリタンニア領でしたよね」「ええ、実を言えば我が国は、そちらの方こそを警戒しているんですよ。その証拠にセナート帝国との国境があるマライ半島には、メーソンリーから四名の魔道士を派遣しています」「四名はすごいですね」 素直に驚いてみせるカイトの反応を見て、ヴァルキュリャが微苦笑を浮かべる。「東南エイジアには他にもメーソンリーから三名の魔道士を派遣しています。それに加えて第七と第八魔道士団を合
三月十八日の午前中に、シロンを乗せた蒸気自動車は検問の無いウァティカヌス聖皇国の国境を越えた。 ガリア共和国の筆頭魔道士団であるシャノワール魔道士団の首席魔道士として、国威を担う要職に就くシロンの聖皇国行きに随行した魔道士は一名のみだった。 シロンと揃いの山吹色の地に黒の糸で刺繍が施されたシャノワール魔道士団の軍服を着た、がっしりとした大柄の男性魔道士は小振りな車窓から望む聖皇国の景色を無言で眺め続けていた。黒猫のエンブレムが刺繍された左胸に標されたナンバーはⅫ。 充実した三十六歳の精悍な顔つきをした第十二席次の男性魔道士と書類を確認するシロンは、移動の退屈をたわい無い会話でつなぐでもなく共に無言だったが、互いに静かな時間を好む性分であることを知る者同士での移動はシロンにとっては快適なものだった。「周到を良しとするシロン卿でも、今回ばかりは懸念が残りますか?」 男性魔道士が落ち着いた口調でシロンへの問いを口にした。 好みに合う艶のあるバリトンの声に、シロンは微かな笑みを浮かべて応じた。「まあ普通に考えれば、懸念だらけですよね。革命後の共和制やら帝政やらを生き延びた貴族が集まれば「復讐」の対象として口上にあげるゲルマニアと、利害の一致があるときだけ互いを利用しあうようになったブリタンニアを同時に口説くんですから。こちらも誠意を示す必要はある。そのせいでゼンヴォ卿、孤高の切り札である卿に無理なお願いをする形になってしまいましたしね」 シロンの口調はその言葉に反して、楽観的な響きを含むものだった。 「孤高の切り札、ときましたか。俺の境遇もシロン卿にかかれば格好が付いてしまう。外人として扱いづらい俺でも、卿の役に立てるんなら本望ですよ」「ありがとうございます」 シロンの微笑みに満足したゼンヴォは車窓へと視線を戻した。 ゼンヴォに合わせて、再び膝に載せた書面へ目を落としたシロンは「小心を飼い馴らせているか」と胸の内で自問した。 世界に二十人しか確認されていない魔範士として祖国のために働き続け、いつしか「魔道士の模範」などと称されるようになっても、英魔範士や太魔範士が居並ぶ列強の首席魔道士の中で魔範士である自分に「失策」は許されない。 周到を良しとするのではなく、周到でなければ動けない。自分が抱えるこの小心は「武器になる」と言い聞かせてきたシロ
セナート帝国によるロムニア王国の併合を受け、ビタリ王国へ魔道士を派遣するブリタンニア連合王国、ゲルマニア帝国、ミズガルズ王国の三国とビタリ王国の四国間による軍事同盟の締結に向けて動くことを、首席魔道士であるカイト、ヴァルキュリャ、インテンサが確認した会談の翌日。 三月十六日の昼前に、レビンとステラが予定通りに聖皇国へと到着した。 カイトは一人で船着き場まで赴き、呼び寄せる形となった二人を出迎えた。 降り立ったレビンの黒髪とステラの亜麻色の髪が、近付く春のやわらかさを含み始めた日差しを浴びて輝いていた。 カイトは純白のトワゾンドール魔道士団の軍服を身に纏う二人のもとへ駆け寄った。「遠路、お疲れ様です」 カイトがレビンに向けて右手を差し出すと、レビンは微かに硬い表情のまま「出迎え、感謝します」とだけ答えて握手に応じた。 レビンと短い握手を交わしたカイトは、続けてステラに向けて右手を差し出した。「長い船旅でお疲れでしょう。ホテルに案内します」「ありがとうございます。カイト卿、少し痩せましたか?」 ステラはやわらかな笑みを浮かべながら握手に応じた。 カイトは港からほど近いホテルへ二人を案内すると、その流れの中で昼食に二人を誘った。 二人の荷物を船の乗組員が客室へと運び込むのを見届けた三人は、連れ立ってホテルの近くにあるレストランへと移動した。 一通りの料理を注文し、白ワインでの乾杯を済ませると、カイトがレビンとステラに向けて頭を下げてみせた。「お二人には、急な赴任を引き受けていただきました。そのお礼を、まず先に伝えたかったんです」 頭を下げながら礼を述べるカイトに対し、レビンが静かに応じる。「礼には及びません。任務ですから」 レビンが端的に答えると、ステラがカイトへの質問を口にした。「カイト卿、わたしたちの赴任先は、もう決まっているんですか?」「はい。ビタリ王国の王都、ロームルスになります」「ロームルスには他の筆頭魔道士団の魔道士も?」「はい。すでにブリタンニアのメーソンリー魔道士団から派遣された二名が駐屯しています」 カイトの答えを聞いたステラとレビンが短く顔を見合わせる。 向き直ってカイトへの疑問を口にしたのはレビンだった。「カイト卿。アルテッツァ卿とセリカ卿、そしてピリカ卿は、これからどうなさるご予定ですか?」「当
セナート帝国によるロムニア王国への侵攻を指揮したのは、ラブリュス魔道士団の第三席次として長く西方戦線を預かり、西方元帥として知られるフーガだった。 他の筆頭魔道士団とは異なり、第三席次をエースナンバーとして運用しないラブリュス魔道士団におけるフーガの地位は大元帥に相当し、北方元帥のセドリック、東方元帥のティーダ、南方元帥のアリアから成る四元帥の中で一段上位にあり、皇帝シーマの右腕として内政と諜報を掌握する第二席次のグロリアに同格とされていた。 急速に勢力を拡大したセナート帝国にあって、最も軍功を挙げた魔道士であるフーガが率いるラブリュス魔道士団に籍を置く七名の魔道士と、西方戦線に配備された第三魔道士団の魔道士、魔道士団の後方支援に徹する二千人規模の一般兵で編成された部隊は、攻め落とした都市に留まることなく進撃を続け、三月九日にはロムニア王国の王都を陥落させたる。 筆頭魔道士団を失ったロムニア王国の国王は同日、無条件での降伏を自ら申し出た。 新聞各紙は『火の七日』という大見出しで、一つの国を短期間で飲み込んだセナート帝国の烈火の如き侵攻を報じた。 セナート帝国はロムニア王国の領土を手にしたことで、短い国境線ではあるもののゲルマニア帝国およびビタリ王国と国境を接することとなった。 さらに地中海に面する港も手中に収めたことで、地中海からオルハン帝国とビタリ王国、そしてガリア共和国へも直接繋がる海路を獲得するという戦果を得たフーガの戦勝スピーチが新聞各紙の紙面を飾った。「セナート帝国は国を征しても、文化を奪い民を辱めることはしない。その証人として民の生活が安らぎ、その顔に笑みが戻るまで、私はこの地に残る」 産業革命の流れに乗り遅れたことで列強に及ぶ国力を有するには至らなかったが、決して小国ではないロムニア王国への侵攻を一週間で完遂するという衝撃の報を受けて、ビタリ王国に滞在していたヴァルキュリャとインテンサ、そしてカイトの三国を代表する首席魔道士は、セナート帝国の次なる動きを警戒して本国への帰還を先延ばしせざるを得なかった。 ビタリ王国を再建するためのキーパーソンとなっていた首席魔道士である三名は、セナート帝国の動向に即応するためゲルマニア帝国とガリア共和国に近いウァティカヌス聖皇国へと移動し、到着した三月十五日には最初の会談を持った。 聖皇の宮殿で
産業革命や列強による植民地争奪といった地球の十九世紀末と酷似した時代背景を持ちながらも「魔法」が実際の力として実在し、その魔法を行使する「魔道士」が存在するという最大の違いによって、地球の同時期との相違が最も大きく表れることとなった軍隊の有り様。 列強とされる国家が数百万人、覇権国家に至っては一千万人をも超える軍人を擁していた大戦前夜の地球とは異なり、魔道士によって編成される魔道士団が軍の主体を担い、戦場において国家の意思を代行する全権代理人としての資格を有する魔道士で構成される筆頭魔道士団が国防の象徴であり本体として機能する異世界テルス。 筆頭魔道士団を失うという国体の維持そのものを揺るがす事態に直面したビタリ王国の要請に応える形で、ブリタンニア連合王国、ゲルマニア帝国、ミズガルズ王国の三国から筆頭魔道士団に籍を置く魔道士を派遣するという四国間の同盟へと繋がる協議が持たれた十一日後。 二月二十四日にウァティカヌス聖皇国の使者が、セナート帝国の帝都マスクヴァへと到着した。 聖皇国の使者は聖皇フィデスの意向として、首席魔道士であったウアイラ以下、筆頭魔道士団としてのトリアイナ魔道士団を構成していた七名全員の身柄引き渡しを要求したが、セナート帝国の皇帝シーマは要求を拒否。 その翌日には、ウアイラ以下七名をセナート帝国の筆頭魔道士団であるラブリュス魔道士団へと迎え入れ、新設した第二十四から第三十まで席次に就任したことを皇帝の署名入りで公表した。 世界情勢に大きな影響を及ぼす報は、最優先の速報として報道機関や外交使節によって瞬く間に伝わり、翌日の夕刻にはビタリ王国に滞在するカイトのもとにも届いた。 ヴァルキュリャと連れ立って宿泊しているホテルにほど近いバーで飲んでいたカイトに、その報せを持ってきたのはメーソンリー魔道士団の第六席次に就き、ヴァルキュリャにとっては貴重な友人でもあるエリーゼだった。「わたしって、お酒もからっきし弱いので、お先に失礼しますね……ごゆっくり」 穏やかな笑みで言い残すと、号外として発行される直前の記事を二人に手渡したエリーゼは早々に席を立った。 ヴァルキュリャは飲み干したワイングラスを置くと、ふうと短く吐息を漏らしてから口を開いた。「これでラブリュスは、我がメーソンリーを抜いて世界一の大所帯になりましたね」「聖皇国は引き下
翌日の昼過ぎ。 カイトは滞在するホテルの客室で独り悩んでいた。 トワゾンドール魔道士団のメンバーの中から、ビタリ王国へと派遣することになった二名の魔道士について、カイトは決めかねていた。 客室のドアがノックされたのに応えてカイトが出ると、アルテッツァとセリカが立っていた。「昼食はまだかい?」 アルテッツァがいつもの輝く笑顔を浮かべながら口にした「昼食」という言葉を聞いて、もう昼過ぎなんだと気付いたカイトは、「もう、そんな時間だったんだ」 と頭を掻きながら答えた。「私たちもこれからなんだ、一緒にどうかな?」「うん、ありがとう。そうしよう」 アルテッツァの誘いに応じたカイトを含めた三人は連れ立って、ホテルのほど近くにあるレストランへと移動した。 オリーブオイルを多用する海鮮が中心となった料理がテーブルに並び、三人は白ワインで乾杯した。 ワイングラスを置いたアルテッツァは、探りを入れること無く本題から話を切り出した。「ビタリに派遣する二名について、迷ってるみたいだね」「お見通しだね。うん、その通りだよ」「私とセリカが、このままビタリに残る。という形が最もスムーズな対処だろうけど」 素直に答えたカイトの迷いを解すように、アルテッツァは会話を進めた。「うん。まあ、そうなんだろうけど……正直に言っちゃうと、アルテッツァには出来れば近くにいてもらいたいんだ。わがままなのは分かってるんだけどね」「そうか……うん。安心したよ」 アルテッツァの「安心」という返答が意外だったカイトは、短く「安心?」とだけオウム返しに聞き返した。「孤独を好む指揮官は強いようでいて、実は脆かったりするものだから」「なるほど……確かに、そうかもしれない」「私とセリカ以外で、となれば候補は絞られるんじゃないかな?」 アルテッツァに促される話の流れに逆らわず、カイトは派遣する二名を選ぶ条件について答え始めた。「アバロン卿とクレシーダ卿、そしてチェイサー卿はラペルーズ。アルシオーネ卿とレオーネ卿はペアホース。セナート帝国への警戒を解けない現状で、それぞれのチョークポイントから動いてもらうわけにはいかない。魔範士であるノンノ卿には王都に留まっておいてもらいたい。候補として残るのは……レビン卿とステラ卿」 レビンとステラの名を挙げたカイトに対して、アルテッツァがうな